kassyoku 046



『ゲスト・ルーム』


 八畳の居間を中心に、六畳の部屋がひとつと四畳半の部屋がふたつ、という、世帯向けにつくられたこの部屋。実際に使っているのは居間とベッドを置いた六畳間だけで、四畳半の一部屋は、もう殆ど物置代わりになっている。

 ただ、残ったもうひとつの四畳半の部屋。
 僕はこの部屋には何も置かず、ただの空室にしている。

 この四畳半は、僕の部屋の一部分だけど、僕のためのスペースではない。ここは「ゲストルーム」。誰かがここに来て泊まってゆく、その時のための部屋だ。


 ずっと一人暮らしを続けているけれど、そういう生活をしていると、僕の部屋には色々な人がやってきて、ごくごく気軽にこの部屋に泊まってゆく。

 まぁ、大抵は普段遊びに来る気のおけない友人達が一泊してゆくだけ。
 でも、たまにはそうではなく、ちょっと理由があって「何日か泊めてくれ」と、誰かがやって来ることもある。実家で暮らしているけれど、両親との間にちょっとしたイザコザがあって、そこに居づらくなった人。結婚したばかりなのに、もう行き詰まった、と感じて家を出てきてしまった人。
 仕事を辞めて社宅を出、新しい部屋がみつかるまで…と、何泊かしていった人。ひとつの恋を終えたばかりで、声を掛けるのも躊躇うほどに、落ち込んでいる人。事故で車をぶつけた相手が暴走族だったので、しばらくかくまってくれ、と転がり込んできた…そんな人もいたっけ。


 こちらが一人暮らしだという、その気軽さから…なのだろう。
 時たま、僕の生活の中には、そうして普段の生活の中でちょっとだけ居場所を無くしてしまった…そんな「誰か」が入り込んでくる事がある。彼らがまた気を取り直して元の生活に戻ってゆくまでの、束の間の居場所になるのだ。

 僕もまた、大抵はそうして誰かが泊まってゆく事を拒まない。

 けれども、学生時代にまだワンルームの部屋に住んでいた頃。スペースはあったけれど、彼らのために一部屋提供できるほどではなかった、前の部屋に住んでいた頃。気分的に色々なものを抱えたそうした「誰か」と、自分の部屋でのプライベートな時間の全てを何日も共有し続ける…という事に、正直、苦痛を感じてしまう事もあった。

 彼らは僕の部屋の客人には違いないけれども、決してルームメイトではない。時々僕は、自分だけのプライベートな空間と時間を、その「誰か」の犠牲にされているような、そんな気分になる事があった。
 そして、「苦痛」だとか「犠牲」だとか、そういう事を感じている自分自身も、嫌だと感じてしまう事があった。
 そういう気持ちを抱いている自分は、知らず知らずの内に、そういう態度で相手に接してしまう。そして、相手も薄々、そうした態度から僕の中にあるその気持ちを、感じ取ってしまう。そうして、互いに気まずくなってしまう、そんな事も何度かあった。


 …そのようなことも、あったので。

 僕は、この部屋に引っ越してきた後。他の部屋よりちょっと使い勝手の悪そうなその四畳半の部屋を見て、この部屋をここに来た僕以外の誰かのための、専用のスペースにしようと思った。

 ひょっとしたらまた塞ぎこんだ誰かがやって来て、何日か泊まっていくうちに少しだけ気を取り直して、そうしてここを去ってゆく。そういう事が、これからもあるのかも知れない。
 そして、そういう時。一緒に居たい時は一緒に居て話をし、別々で居たい時には黙って別々に居られるこうした部屋があれば、多分僕自身、そうした誰かをもっと余裕をもって受け入れる事ができるかも知れない。…そう思った。


 ゲストルーム。実際は未使用の四畳半の部屋に過ぎないけれど、ちょっとした居場所を必要としている人にとっての必要な居場所に、少しでもこの部屋がなれるのだとしたら。
 少し混乱した気持ちを抱えた誰かがやってきて、何泊かするうちに気持ちに整理をつけ、元の居場所や新しい居場所に向かってゆく。その立ち直りのためのスペースに、少しでもこの部屋がなれるのだとしたら。

 これは、ちょっといい事だと思う。

 そしてそういうスペースを、生活空間の中…だけではなく。
 自分の中にも持つ事ができたら、もっといい




『植物の大戦略』


 大昔に栄えた恐竜達が、どうして滅んでしまったか、知ってるかい。

 − 隕石、でしょう。

 そういう話もある。でも、それが全てじゃないかも知れない。「恐竜は大古の森に滅ぼされた」って話は、知ってるかい?

 − 知らない。大古の森…って?

 大きな草や、巨大なシダ植物。今の植物のように固い幹を持たない、柔らかい樹木でできた森のことさ。今は石炭になっているような。

 − どうして樹木が柔らかかったの?

 身を護る必要が無かったから、かな。少なくとも、水中生活をしていた恐竜の祖先が陸に上がってくるまでは、彼らに敵らしい敵はいなかったからね。だから、彼らはその無防備な体でも森を成し、地上を支配する事ができていた。

 − 地上に恐竜が現われて、何が変わったの?

 水中から陸上に進出した恐竜達は、それまで敵を知らなかった柔らかい植物達を、手当たり次第に貪り喰った。恐竜達にとっては、楽園だっただろうな。
 …で、恐竜達はその数を増やし、自分達の体も際限なく大きく成長させていった。そうして終いには森の樹木と同じ大きさにまで成長して、森を直接貪るようになったんだ。

 − 森にとっては脅威だね。
   それが「大古の森が恐竜を滅ぼした」…その理由なの?

 そう。このままでは自分達は本当に喰い尽されるかも知れない。大古の森はそう考えたのさ。だから、大古の森は彼ら恐竜達を滅ぼすことに決めた。

 − 「滅ぼす」って、どうやって?

 自らが「滅ぶ」ことで。

 − それじゃ共倒れ。意味ないじゃん。

 いや、大古の森は自ら滅ぶことを選んだ。でも、同時に自分達の体を、恐竜達の食性に適さない体に「変化」させることを思いついたんだ。

 − 食性に適さない体…って?

 柔らかい幹から固い幹へ、大きな体から小さな体へ…と、変わっていったのさ。で、その変化は長い年月をかけて、恐竜達に気付かれないよう、その足元でそっと少しづつ、でも着実に行われていった。
 そしてその間、従来の柔らかい樹木達は自分の体を、何の抵抗もせず恐竜達に喰わせ続けたんだ。恐竜達の数を更に増やし、そして、更に大きく育たせるために。

 − どうして? 恐竜達の勢力が大きくなったら、自分がやばいんじゃないの?


 …それが多分、植物の大戦略。
 抵抗せず喰わせ続けることで、恐竜達を自分達の存在なしでは生きていけないようにしてしまう。そうして何の疑いもなく森を貪り続けた恐竜達は、やがてその数も体のサイズも頂点に達する。でも、その時にはもう遅い。彼らはその時既に、大古の森を喰い尽くしてしまっているんだ。

 − 変化した植物達は? 彼らは喰べ尽くされなかったの?

 飢えた恐竜達は、もちろんそうした新しい植物も口にした。でも、大きくなりすぎた彼らの体では、足元に生えているその小さな植物達…、そう。タンポポのような小さな植物達を喰い尽くすことは、できなかった。
 それに、その新しい植物達は、決して喰い尽されることのない「無数の小さな種」をつけたから、幾ら喰われたところで決して滅ぶことはなかった。種は長期間地中に潜み、恐竜達が去ってから芽吹くこともできたしね。

 − それで、大古の森を喰べ尽くした恐竜達は…?

 その数もサイズも維持できなくなって、やがて滅んでしまった。
 ひょっとしたら、彼らに止めを刺したのが、あの「隕石」だったのかもね。

 とにかく、そうして地上の支配権は交代した。
 恐竜達は滅び、地上には大古の森に替わって、固い体を持ち、花を咲かせ、無数の種を実らせる…そんな新しい植物達が新たな森をつくることになった。花粉を運ぶ虫達、種を運ぶ鳥や他の動物達を、自分達のパートナーにして…ね。

 わかるかい?
 大古の森は、自分達を喰らい尽くそうとする恐竜達を滅ぼした。
 喰われても何も言わず、何の抵抗もせずに、己を喰らわせ続けることで。
 そうやって相手を大きく育たせ、自分達の存在なしでは相手が生きられない、そんな状況を造り出す。そうしておいて、彼らは一斉に滅ぶんだ。その後に芽吹く種を、地中に残して。

 それが植物の戦略なんだよ。
 人の理解の及ばない、何千年、何万年という時間感覚の中で行われる。
 それは壮大な壮大な、大戦略なんだ。


 − …じゃ、どうして今の森は人類を滅ぼさないの?
   今の人類はそんな恐竜達に似ている。
   大きくなりすぎて、まさに森を喰べ尽くそうとしているのに。
   もし、いま森が一斉に枯れれば、人類なんてすぐに滅んでしまう。
   でも種は残るから、しばらくすればまた元の森に戻れるんじゃないの?


 それが何故かは、判らない。
 でも、植物の大戦略はすでに、人類にも及んでいるのかも知れない。
 …作物、ってのがあるだろう?
 人間の食性に適した形に、己の体を変化させた植物達。

 − 作物は人が「改良」したものじゃないの?

 …どうだか。植物達は人間を早々に滅ぼす事はとりあえず待って、とことん利用する事に決めているだけ、なのかも知れない。「改良」すら本当は「植物自身の意思」で、人は植物を利用しているつもりで、本当は植物の勢力拡大のために利用されているだけ、なのかも知れない。

 − でも、このままだといずれ恐竜と同じになってしまう。
   人のなすがままにさせておいたら、いずれ取り返しのつかない事に…。
   それなのに、どうして植物達は、まだ人類に耐えているの?

 さあ。今はとことん依存させておいて、後で一気に滅ぼす腹かも知れない。
 でもね。時々、こうも思うんだ。人類は、恐竜達には無かった大きな可能性を、植物達にもたらす存在なのかも知れない、って。…だからまだ、植物達は人類の横暴に耐えていられる。その可能性と引き換えに、ね。

 …続けてもいいかい?
 植物は昆虫に花粉を運ばせ、鳥やその他の動物達に種を遠くへと運ばせる。
 動物の存在なしでは植物もまた勢力を伸ばせない、というのも事実なんだ。植物自身には、移動する力がないから…。


 − そのために?
   …でも、植物はすでに世界中に勢力を拡げている。
   これ以上、人の手を借りてまで勢力を伸ばす、その必要もないほどに。
   それでも、まだ伸ばし足りないの? …植物達は。


 そんな小さなことじゃないんだ。
 植物が人類に期待しているのは、もっと、もっと大きなことさ。

 − もっと大きな、こと?

 そう。人類は既に月に辿り着き、他の星に行く方法も練り上げている。この先何百年、何千年もすれば、人類は他の星に移り住むようになるかも知れない。でも、人類はもう植物なしでは生きられないから、その時には必ず、何種類かの植物を一緒に連れてゆく。
 その事は、植物達もまた、この星を飛び出して他の星にまでその勢力を拡げる…、その可能性を得られるかも知れない、ということなんだ。もしかしたら植物達は、その機会が到来するまで、じっと耐え続けているのかも知れない。

 己が育んできた「人類」による、宇宙への播種!
 それが実現する、その時まで。


 − もし…さ。

 …もし?

 − もし、人類が星を目指そう、っていう心を亡くしてしまったら?
   その時はどうなってしまうの?


 …さあね。判らないよ。
 でも、ひょっとしたら今の人類を滅ぼして、
 新たに星を目指す文明を、育むのかも知れないね




『隔絶空間』


 家路につく人々で、混みあった地下鉄の車内。座席に座っている人も吊革に掴まって立つ人もいっぱいだけど、まだ何とか、互いが触れずに済む程度の距離を保っている。
 僕は乗降口に近い車内に立ち、座席に座る人と、暗い車窓に映る自分の姿と、向き合うような形で吊革に掴まっている。
 トンネルの壁の所々で明かりを燈している蛍光灯の光が、線になって窓の外を通過する。背後に立っている人が背負っているリュックサック。それが僕の背中に軽く触れ続けている。僕の斜め前で座席に座っている女性が、携帯電話を開いてずっと画面を操作し続けている。

 次の駅名と降り口の左右を告げるアナウンスが車内に流れる。
 その時、乗降口の手すりの脇の席に座っていた背広の男性が突然立ち上がり、そのポケットの中から、逆手に持った果物ナイフを素早く取り出した。そうして、人間ひとり分のスペースを空けて隣に座っていた中年の男性に踊りかかり、切りつける。切られた男性が、血を流しながら、その隣の携帯電話を開いていた女性の膝に倒れこむ。
 女性は携帯電話を投げ捨てて悲鳴を上げ、その場から立ち逃れようとし、僕の隣に立っていた別の女性を斜めに突き飛ばす。突き飛ばされてよろけた女性が、僕の後ろでリュックを背負っていた男性に激突する。驚いて振り向いた男性の顔が、その光景に青ざめ、硬直する。

 そうしてようやく、車内が騒然となる。
 その間にも男の刃によって、乗客が次々と切りつけられ、あるいは刺されてゆく。車内には悲鳴が交錯し、人々の群れは別の車両に逃れようとするもの達と、その場に立ち尽くすもの達の、二つに分かれる。


 そして、その時。
 僕は一体、どうすればいい?


 乗り合わせていたある地下鉄の車内。
 立って吊革に掴まりながら、僕はそんな惨劇を想像をし、自問していた。

 と、いうのも。僕の想像の中で突然の凶行に及んだその男性…乗降口に一番近い座席に座っている背広の男性…が、乗降口の脇の手すりにダラン、と力なくもたれかかった格好で、体を捻り窓の外を見続けながら、

 「コロシテヤル…コロシテヤル…」

 と、小声ともいえない声でぶつぶつと呟き続けていたからだ。


 男はそう呟きながら車窓に指を這わせ、何か見えない文字をガラスに書き続けている。コロシテしまいたい人物の名前なのだろうか。
 周りを見渡すと、彼の行動には気付いているけれども、彼に関心がある素振りを見せないように、と努めている人が殆どのようだった。
 一人の女性が隣の車両から移ってきて、自然と彼の真正面の「空きスペース」に入り込み、吊革を手にした。でも、少しして彼女も「コロシテヤル…」と呟いている彼に気付き、「何?」という表情であたりをキョロキョロする。
 周囲の乗客の一人が、驚く彼女の仕草を見て苦笑する。彼女もすぐにそのスペースが空白になっていた理由に気付き、その場を離れる。そうして、彼からは少し離れた場所にスペースを見つけ、そこに落ち着く。

 こうした事が、全ての乗客達の間で、暗黙のうちに行われている。
 ふと、この車内の空間が見えないルールに支配されているような、そんな気がした。

 大勢の乗客の中で「コロシテヤル…」と呟く男性に対し、無視はするけれど、関心が無い訳ではない。傍に近付く訳ではないけれど、離れすぎる訳でもない。
 人ひとり、ふたり分の隔絶空間。その微妙な距離の空白の空間が、彼の周囲をドーナツのように取り囲んでいる。


 僕の隣…彼の側の隣に立っている女性が、この車内で一番、彼の近くにいる人物だった。彼が座っている座席の隣の空白。その真正面に彼女は立っており、彼とはちょうど斜め向かいの位置関係だ。
 彼女を横目で見てしまうのは失礼なので、僕は車窓の鏡越しに、時々彼女の様子を窺った。彼女も勿論、彼の様子がどんなものか、良く判っている。彼が例の言葉を呟く度に、彼女の方も不快そうに、吊革を握る手やその表情をモジモジさせている。

 でも、その場所を、彼女は結局、離れなかった。
 他に移動するスペースが無かった…という訳ではない。彼女は彼の様子を一番間近で感じながら、それにも関わらず、彼との間に物理的な距離を取ろうとはしなかった。

 そうして、彼女はただ、意識のみを彼から逸らし続けていた。


 正直。こういう場面に自分が居合わせたた時。
 僕は自分がとるべき一番正しい行動は、その場を離れて隣の車両に移る事、だと思う。真面目だと周囲の評価も高い人間ですら、人を殺す。公共の場で「コロシテヤル」と呟いている人間が、何をしでかすかは判らない。

 もし、彼の「コロシテヤル」対象が、ある特定の人物ではなく、周囲にいる他の人間「誰しも」だったら? 彼がその願望を、この場で発散させたとしたら?

 その第一撃をくらうのは、彼の一番近くにいる、彼以外の「誰か」だ。
 でも、この場では、だれもその可能性から、積極的に逃れようとはしない。
 いや、僕自身も、まさか本当にそうなる可能性があるなどとは、本気で思ってはいない。この場にいる、他の誰もがきっとそうだ。彼らは動じていない。そのような人物を間近にしていても。

 万にひとつの危険が及ぶ可能性があるその身より、意識して護り続けなければならないのは、もっともっと別のもの、という事なのかも知れない。
 人々は、彼との間には、二歩にも満たない隔絶された空間を設けるだけ。何かあったら身を護れる距離ではない。でも、眼に見えない距離。意識的な距離はずっと遠くへと、その場から逃れさせ続けている。

 そうして人々はこうした状況の中でも、揺ぎない心を保ち続けようとする。
 そう。不快な対象から、意識と眼を逸らし続ける。
 それがこの車内の人々にとっては、最大の防御になっているのだ。


 彼は相変わらずぶつぶつと呟きながら、車窓に見えない文字を書き続けている。僕の位置からは彼の後頭部しか見えないけれど、彼の耳の後ろの部分の異常なまでの白さが、彼の現在の顔色と精神状態が平常ではないことを覗わせている。

 そして、ごく僅かな隔絶空間を挟み、彼に無関心であり続ける人々が彼を取り巻いている。

 時々「勇気ある」嘲笑の声が、車内の人々の一群から漏れる。
 それ以外は妙な沈黙が、ただただ車内を覆い続けている。


 しばらくして。

 呟き続けていた彼が突然黙り、ふーっと大きな溜息をついた。
 車窓を這い続けていた彼の指の動きも、ピタッと停まる。

 そうして、彼はそれっきり静かになった。
 ひょっとしたら彼は、誰かを「コロシテ」しまったのかも知れない。

 外からは隔絶された、彼のその意識の中で




『ひと押しの力』


 先々週くらいに古本屋で買ってきた一冊の本を、ようやく読み終える。『カモメに飛ぶことを教えた猫』というタイトルの物語。どちらかというと童話だ。
 物語の舞台はとある港街。瀕死のカモメが一匹の猫の前で、自分の命と引き換えに、ひとつの卵を産み落とす。でも、その際にカモメは猫と約束を交わす。卵を食べず、雛を育て、そうして育った雛に飛び方を教えること。約束した猫は港町の他の猫達と協力し、その約束を果たすために奮闘する。そういう物語。

 どうしてこの本を買ってきたのか。僕はただ、そのタイトルに惹かれた。
 子供の頃、小鳥の雛を何度も育てた事がある。雀の雛は何年にも渡って、何羽も育ててきた。家の換気口に巣をつくられるとダニが出るから、と、近所の家ではそうした雀の巣がよく撤去されていた。そこから拾ってきたものだ。
 親父が勤め先からセキレイの雛を持ち帰ってきた事もあった。橋の下のイワツバメの巣に、近所の小学生が戯れに石を投げたら命中して、巣ごと落ちてしまった雛をどうしていいか判らずにオロオロしていたその子供達から、2羽のツバメの雛を引き取ってきた…そういう事もあった。

 で、古本屋でこの本のタイトルを目にした時。ふと思った。
 そうして何羽もの鳥の雛を育ててきたけれど、「飛び方」なんて教えた事あったっけ?


 風切り羽が生え揃ったばかりの雛に僕がした事といえば、雛を手の上に載せて、軽く放り上げたりして、その羽をバタバタさせる事を憶えさせるだけだった。
 最初は雛も、手から放り出されまいとして、その足の爪を必死に僕の指に喰い込ませてくる。でも、そうしているうちに、雛はゆっくりと落ちる事ができるようになり、少し浮き上がる事ができるようになり、やがては飛び立つ事が、自然とできるようになる。

 そう。人が鳥に翼の使い方を教える事はできない。飛び方を教える、なんて、もってのほか。人が鳥にできる事があるとすれば、それはただひとつ。必死で指にしがみついてくるその足をふり解き、一瞬でも空中にその身を置く、その瞬間をつくってやる事くらいだ。でも、人がそうしなくても、鳥は自ら飛び方を覚えるのだろう。


 物語の中で猫達は、ダ・ヴィンチの飛行機についての記述を辞典で参照しながら、航空力学を云々しつつ、カモメの雛を空に羽ばたかせようとする。
 でも、その方法ではなかなか上手くいかない。物語の猫もまた、鳥に翼の使い方を教える事はできない。

 ただ、最後に猫達は、詩人の力を借り、飛び方そのものを教えるのではなく、飛ぶことを躊躇うカモメを、言葉の力で空へと羽ばたかせる。

 物語の中で猫達がカモメにした事と、僕が小鳥達にしてきた事は、ひょっとした似たような事なのかも知れない。もう充分に飛べるはずなのに、なかなか最初の一歩を踏み出せないでいる鳥に対して、翼を持たない者達ができる事。それは、飛ぶことを躊躇っているその背中を押す、ひと押しの力。それをそっと、添えてあげることくらいだ。

 そうすれば、鳥達は自らの力で、新しい世界へと羽ばたいてゆく。
 鳥に翼の使い方を教える、そんな必要は無い。
 鳥は元々、飛ぶように産まれついているものだ。


 新しい世界への一歩を踏み出す時。
 なかなかその一歩を踏み出せず、切り崖の淵に立ちつくしたまま、飛び立つことを躊躇っているような、そんな時。

 必要なのは、その背をそっと後押ししてくれる、ひと押しの力。

 それは、背に添えられる誰かの手だったり。
 時には、たったひと言の言葉だったりもする




『ゆるぎない根が花を咲かせている』


 職場への毎日の通い道の歩道の上。昨年の秋から今年の冬の終わりまで、そこでは下水管の埋設工事が行われていた。歩道のアスファルトを引き剥がし、穴を掘り下水管を敷き、そうして埋め戻してから、再びアスファルトを貼る作業だ。
 今はその工事もすっかり終わっている。そして、その作業と同時に、去年まではでこぽこが目立っていた歩道の整備も行われたので、この道はまるで昨日出来たばかりのような新しい姿に産まれ変わっている。

 去年より歩道の幅が少し拡くなった。勿論、その幅は車道側に拡がったのではなく、縁石の反対側。去年までは土の地面で草が繁っていた所が均されて、そこに新しくアスファルトが敷かれ、1メートルにも満たないけれどその分、歩道の幅が拡げられている。


 今はもうすっかり散っている桜の花が、まだ開くずっと前。この道を歩いている時、その歩道の拡がった部分の真新しいアスファルトの上に、ほんの小さな盛り上がりが何ヶ所かできているのを見つけた。
 そのアスファルトの盛り上がりは、日々成長していた。去年までは草むらだった所だ。均されて砂利を敷かれ、その上に新しいアスファルトを貼られたとはいえ、それでも生き残った植物が春になって普通どおりに芽を出し、その下で頭上の厚い壁を押し上げている。

 そこから何が芽を出すのだろう。
 つくしかな? タンポポかな?

 そこを通る度にそんな事を思っていたけれど、あちこちでつくしがその姿を現す時期になってもそこからはつくしは現われなかった。そしてそのうち桜の蕾が膨らんだり、樹木の若芽がどんどん開いたりして、僕はそちらの大きな日々の変化の方に目を奪われ、足元のアスファルトの成長する膨らみには気を留めなくなっていた。


 そのうち大型連休に入り、この道もしばらく通らなくなり、僕はもうすっかりその事を忘れていた。

 …でも、今日になって。

 その真新しいアスファルトを破ってタンポポが点々と花を咲かせている、その事に気付いた。土の地面の上のタンポポはもうすっかり満開になっている。厚い壁を破ってきた分、それらより少し遅れて咲いたタンポポ。他のタンポポのような一杯に拡げた葉は無く、地上に顔を覗かせている葉はしわくちゃになった数枚だけ。どれもやっとこさ花だけ咲かせた、という感じだった。

 そして結局。今日見た限り、新しく貼られたアスファルトを破って今年芽吹く事ができた植物は、これらタンポポだけだった。
 このしぶとさは何なのだろう、と思う。タンポポが石垣の隙間だとか意外なところで芽吹くのは、風に乗るその種の仕業。こうしてアスファルトを破って芽を出すのも、風に吹かれて上手くアスファルトのひび割れの隙間に落ちた種が芽を出しているだけなのだと思っていた。

 けれども、タンポポの強さの秘密はその種の身軽さだけでは無かった。
 タンポポが一年草では無い、という事を、僕はすっかり忘れていた。
 タンポポのそのしぶとさの源は、地中にしっかりと深く降ろされた根っこ。
 そして根っこは、地上の花や葉がすっかり刈り取られても、砂利と舗装で埋められてしまっても、変わらず土中で生き続ける。


 種だけ見ると、ふわふわして身軽そうなタンポポ。でも、見えない所にしっかりと、何事にも屈さないそうした「ゆるぎない根」を持っている。

 種の身軽さと、根のゆるぎなさ。

 この対極にあるふたつの強さを兼ね備えているから。
 だからタンポポは強いのだ…という事に、改めて気付いた。


 分厚い障害を貫いて、真新しいアスファルトの上。
 その黒々とした上に、点々と黄色く燈る、タンポポの花。

 ゆるぎない根が、こうして花を咲かせている

(2002/05/08)


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