kassyoku 047



『そうして身を寄せ合う、2匹のヤマアラシになれ』


 ある人と電話で話をしているうち、その中身が「大切な人との距離の取り方」の話になった。そしてその時、その相手がふと思い出したように「ヤマアラシのジレンマ」という話を持ち出してきた。2匹のヤマアラシが寒さの中。互いの温もりを求めて身を寄せ合おうとするけれど、近付きすぎると互いの刺に傷つき、かといって離れ過ぎてしまうと凍えてしまう。そうして程良い距離を探し続ける…という「ジレンマ」の話だ。

 その話を持ち出されて、僕は少し戸惑う。僕はこの例え話、これまでも様々なところで何度か耳にしてきたけれど、聞く度に何となく違和感を感じていた。
 ヤマアラシという動物を実際に見た事はないけれど、僕はその刺。身を護るための刺を持つ他の多くの動物がそうできるように、逆立てる事もできれば、折り畳む事もできるものだと思っている。
 そして、2匹のヤマアラシが互いの温もりを求めて身を寄せ合おうとするのなら、相手を自分の刺で傷つけないよう、それをしっかりと折り畳んでから身を寄せ合う、そういう事もできるはずだと思っている。


 でも、それを言ってしまうと屁理屈っぽいので、その時の僕は、その話を聞くだけに留めていた。でも、一通りの話を終えて電話を切った後、少し考えた。互いに温もりを求めながら近付いているのに、互いを傷つけ合ってしまう、そんな動物達の事を。

 それは多分、ヤマアラシのような、目に見える刺を持つ動物達では無いのだと思う。ヤマアラシに「ヤマアラシのジレンマ」は存在しない。
 ヤマアラシなら、互いの毛並みが鋭い針である事を知っている。そして、その針を寝かせてぴったりと身を寄せ合う、その術も心得ている。…恐らく、その術を知らない動物達なのだ。いや、自分が持っている鋭い刺の存在にすら、気付いていないのかも知れない。温もりを求めて身を寄せる度に、互いを傷つけ合ってしまう。哀しい動物達。


 そんな事を考えながら、ふとある光景を想像した。

 土に掘られた、冬ごもり用の穴の中。その狭い空間の中で、ぴったりと身を寄せ合っている2匹のヤマアラシの姿。黒光りする鋭い針の毛並みを全て寝かせ、どちらも相手を傷つけること無く、薄暗い巣の中で寄り添いながら、零距離の互いの体温にぬくまり眠っている。

 寄り添う互いが傷つかないために必要なのは、相手との「距離」や「間合い」を計る、その事ばかりでは無い。互いが己の刺の存在とその鋭さに気付き、寄り添う際にはその刺を折り畳む…その事も必要だ。


 そうして身を寄せ合う、2匹のヤマアラシになれ。
 きっと、その方があったかい。

 刺を逆立てたまま、「程好い距離」を保ち続けるよりも

(2002/05/09)




『ソロバン』


 職場の事務所のキャビネットの引出しの奥深くに、何故かひとつ、ソロバンが入っている。恐らくはずっと以前に誰かが使っていたものだろうけれど、事務所の誰も、その由来を知らない。そして誰も、その使い方を知らないので、このソロパン。片付けなどの機会を除けば、滅多に人目に触れる事も無く、ひっそりと引出しの奥底で眠り続けている。

 事務作業の殆どがパソコン作業になったとはいえ、年配者の中にはまだまだ、それを不得手とする人も多い。今日、そういう人に表計算ソフトのちょっと複雑な操作を教えていた時。関数がどうのこうのという説明のところですっかり煮詰まってしまったその人が、ふと、こう漏らした。

 「いやー、やっぱり俺、パソコン駄目だわ」

 それを聞いて、事務所にいた一人が口を挟む。
 「だって、電卓時代の人だもんねーガハハ」
 「…電卓も駄目さぁ。俺、ソロバン時代の人だから」

 そんな冗談のやり取りを聞いていて、僕はふと思い出す。…ありますよ、ソロバン。席を立って、ゴソゴソとキャビネットの中のソロバンを発掘し、それをシャカシャカ振り鳴らしながら持ってくる。そうしてそれを、机のひとつの上に置く。
 ちょうど休憩のタイミング。机の周りに事務所の皆が集まってきた。そしてそれぞれ、珍しそうに、懐かしそうに、それに触れたり、振ってみたりする。

 「あー、やったやった。小学校の時」…と、カチカチ。
 「ここの珠、動かないぞ」…と、カチカチ。
 「うーん、昔の人はこんなので事務やってたんだな。信じられないな」…と、シャカシャカ。


 「でも、今これ、使える人いるのか?」


 「はい、珠算三級!」そう言って、僕は手を上げる。
 「おぉ、見せて見せて!」と、周りが盛り上る。

 では、御披露。

 ソロバンをカチッ、と持ち上げて珠を揃えてから、エンピツを握った右手の人差し指をジャーッと滑らせ、5の桁の珠を揃える。そして、自分で数字を読み上げながら、パチパチと一気に計算する。

 「1足す2足す3足す4足す5足す6足す7足す8足す9足す10は…はいっ、55ぉ!」


 …以上。


 「それだけかい!」 と、見ていた一人が突っ込む。
 だって、珠算三級…って、小学生の頃の話だもん。


 結局、他に誰か扱える人がいるでもなく、ソロバンは小休憩の余興にされただけで元の場所に戻され、そこで再び眠りにつく事になった。…休憩終わり。皆、それぞれ自分の持ち場に戻る。僕達も再び、パソコンでの表計算に戻る。

 そういえば、ソロバンの珠を弾こうとした時。
 最初は右手に何も持たずに弾こうとしたけれど、空の手では何となく違和感を感じて、僕は子供の頃ソロバンを弾く時に常にそうしていた時のように、右手にエンピツを握った。

 そうすると、ふと、ソロバンの珠が指先に馴染んだような気がした。

 …可笑しい。
 
 そういう感覚だけは、今でもしっかりと身に染み付いている。
 ソロバンの使い方なんてもうすっかり忘れているのに

(2002/05/10)




『雨の中に佇む季節』


 雨降る街角。風は無く、湿った空気は動きを停めている。
 その中を歩いていると、所々で花の香りがした。家々の庭先では、今が盛りのライラックの花が咲き誇っている。香りはそれらの花から漂ってきているものだけど、どうしてだろう。花の香りの漂い方。それは花に近付く程、徐々に濃くなってゆく…という漂い方ではなく、ふと香ってはすぐに消えて、またふと香る…そんな漂い方だった。湿った重たい空気の層の中、香りは小さな塊となって、切れ切れに存在しているみたいだ。

 桜はすっかり葉桜になり、青い実を結び始めている。
 代わって、今満開になっているのが、そのライラックの花。僕はこの花、6月頃の花だと思っていた。けれど、今年の花暦は出足が早く、進むのも早い。ぼうっとしていると、人々を取り残してどんどん先に行ってしまう。今月に入ってからずっと続いた晴天も、駆け足で過ぎてゆく花暦の速度を、更に加速させたみたいだった。


 でも、今週になって、ようやく纏まった雨が降った。
 雨らしい雨が降るのは、本当に久しぶりだ。そして、久しぶりに降ったこの雨が、忙しなく駆け抜けていたその花暦を、少しだけ立ち停まらせている…そんな気がする。
 続く晴天の中では、蕾はあっという間に開いて、さっさと花の営みを終わらせると、すぐに散ってしまう。でも、雨の中では違う。雨降りの中では、蕾も花を咲かせる事を躊躇う。咲いた花にしても、雨の中では花粉を運ぶ羽虫達もやってこないから、花はなかなかその営みを終える事ができない。

 その時、雨が降り続く中、花はじっと晴天を待ち続けている。そう。雨は花を散らせるばかりではない。時には降り続く雨と曇り空が、そうして花を長持ちさせる。そういう事もある。


 例年になく早かった雪融けに始まった、今年の春。長く続いた晴天に支えられて、例年の暦を置き去りに、全速で駆け抜けていた。

 でも、その季節がこの雨の中。ちょっとだけ一休みしている。
 そのままでは一時も留まることなく移ろい続ける、春という季節。この時期に降る雨は、それを少しだけ立ち停まらせる。…進み続ける季節が、息切れしないように。

 そして、そうして雨降りの中で立ち停まった季節に、人々が落ち着いてじっくりと眼を留める…ひょっとしたらそういう機会も、この時期の雨は人々に与えてくれているのかも知れない。


 雨の中に佇む季節。そっと見詰めてみる。

 足元のあちこちでは、タンポポの花。
 雨降りの薄暗い中、一度開いたその花を再び閉ざしている

(2002/05/18)




『スゴイね、よく見つけたね!』


 週末の雨も上がって、晴天だった一日。雨の中では立ち停まっていた花暦が、再び進み始める。雨の恵みもあってか、道端や芝に生えている草々にも、一気に緑が射した気がする。その中にはもう、稲のような穂を伸ばしている…そんな草もあった。

 歩道を歩いている時、僕のすぐ前を一組の親子が並んで歩いていた。子供二人に、母親が一人の組み合わせ。母親が子供達をかばうように一番車道側を歩き、子供達はその内側を、立ち停まったり、駆け出したりしながら、思い思いの速度で歩いている。

 ただ、母親もそんな子供達に合わせて歩いているので、その歩みが遅い。僕は二人を抜かそうかどうしようかと迷いながら、少し離れて、その後ろを歩いていた。
 そうしてしばらく歩いていると、また少し立ち停まり、母親に取り残されていた子供が、ぱーっと母親の所まで駆け戻っていった。そして、歩道の脇の、両面に芝が貼られた法面を持つ、自身の背丈くらいの深さの側溝を指し、母親に「そっちを見て」というような仕種を何度か繰り返した。


 子供は何かを発見したらしい。

 「…すごいんだよ。タンポポがね…こっちがわはぶわーっと花なのに、
  あっちがわのはみんな、ぼんずになっちゃってるの…どうして?」

 耳を傾けると、子供はそんな事を母親に言っていた。
 でも、母親には上手く伝わっていないみたいだ。僕にもその意味がよく判らない。…ぶわーっと花、とか、ぼんず、とかって、何を言ってるんだろう。

 子供は立ち停まり、歩道脇をじっと見詰めている。母親もその場に立ち停まる。でも、母親は後ろを向いて、僕と母親の中間くらいの位置を遅れて歩いている、もう一人の子供が自分達に追いつくのを、待っているだけ。


 その間に僕は3人を追い抜いて、先を歩いていった。
 でも、先程の子供の言葉が気になって、何となく側溝を眺めながら歩く。側溝の芝には、確かにタンポポ。花と綿毛が、ちょうど半々くらいになって無数に開いている。

 それを見ていて、ふと気付いた。
 子供が言っていた、そのことの意味。

 歩道に沿って掘られた側溝。その法面の「こっちがわ」…つまり歩道側の法面のタンポポは、全て、黄色い花を咲かせていた。
 でも、その反対側。「あっちがわ」の法面にあるタンポポは、その全てが綿毛…「ぼんず」になってしまっている。

 そして、その花と綿毛。
 黄と白の両者が、側溝の法面の「こっち側」と「あっち側」で、驚くほど明確なコントラストを描いている。


 あー、なるほど!


 側溝の両側で、向かい合うようにして咲くタンポポ。
 その法面の向きの関係で、「あっちがわ」の面は朝からずっと日向になり、その分早く成長したタンポポが、一足早く綿毛の花を咲かせている。でも、その反対側。朝からずっと日陰になってしまう「こっちがわ」の法面のタンポポは、夕方くらいしか満足な陽射しを得られず、こうして向かいのタンポポからしばらく遅れて、ようやく今になって花を咲かせている…そういうことらしい。

 綿毛のタンポポと、花を咲かせているタンポポ。
 そこではそれらが、側溝の片面を白に、もう片面を黄色に染め、ずーっと一直線に長く伸びていた。


 その両者の距離は1メートルほどに過ぎない。
 それなのに、両者の成長の具合には、これほどの大きな開きがある。
 改めて見ると、この側溝に限らず、他の場所のタンポポもそうだった。家の影になっている所と、そうではない所。木が影を落としている所と、そうではない所…。


 上手く言えない。

 とにかくもう、本当に、『こっちがわはぶわーっと花なのに、あっちがわのはみんな、ぼんずになっちゃってる』…のだ。

 それを発見した時の驚きと、その様子を伝えるための言葉。
 それには多分、これ以上のものはないな…と思った。


 歩きながらちょっとだけ、3人を振り返った。
 2人の子供が、道端にしゃがみ込んでいる。その後ろから母親が、膝に手を当てて屈み、しゃがみ込む二人を覗き込んでいる。

 …スゴイね、よく見つけたね!

 その母親の姿に、僕は勝手に台詞をつけていた。
 3人が何を話しているのかは、ここまでは聞こえない。

 けれど、そうでありますように

(2002/05/21)




『紅い月』


 晴天だったにも関わらず、驚くほど寒かった一日。街中で見かける様々な制服も、もうとっくに夏服に変わっているというのに、今朝は白い息を吐きながらの通勤。ライラックもニセアカシアの花も散り、もう暦の上では初夏になっているはずなのに、今日は本当に一日中、暖房が欲しいと思っていた。

 沈みきってからもしばらく漂っていた、夕陽の残照。そのほの明るさが消えてから、こちらは昇りはじめたばかりの月を見ながら帰宅する。この時間に昇ってくる月。満月。この冴えた冷たい風の中、まだ低いところにあって紅みが射した大きな月に、何となく暖かさを感じてしまう。


 今日の月はそれほどでもなかったけれど、昇りかけの低いところにある月は、時々こうして紅く染まる。時には驚くほど紅い色をしている事もあるけれど、これはどうしてだろう。朝陽や夕陽が紅く染まるのと、それは同じ原理なのだろうか。
 でも、朝陽や夕陽は常に紅く染まっているけれど、月はそうではない。大抵は夜空の高い所に昇っている時と同じ、白く輝いた姿で昇ってくる。月が紅い色をして昇ってくるのを眼にする事は、それほど多くはない。

 月の光はどの時点で紅に変わるのだろう。
 宇宙に漂う月に太陽の光が反射し、月面を白く輝かせる。反射した光は宇宙空間を突き進み、やがてこの星に到達する。宇宙で眺める月の色は、恐らく常に白い色をしているのだろうから、月の光が紅色に変わるのは、やはりその光が大気の中に飛び込んでから。その分厚い大気のプリズムによるものなのだろうか。…夕焼けと同じように。

 でも、それならば。
 なぜ、月は気まぐれに紅く染まったり、そうではなかったりするのだろう。


 「月が紅く見える夜には、ろくな事が起こらない」

 ふと、そんな言葉を思い出す。
 いつかどこかで耳にして、それからずっと思い出す事もないけれど、心のどこかには引っ掛かり続けている。そして、ふとした何かが切欠となって唐突に蘇ってくる。…そんな言葉だ。

 ひょっとしたら。
 白い月の光が紅に変わるのは、その光が僕の眼の中に飛び込んでからの事、なのかも知れない。ある日の月の色を僕が「紅」だと言っても、他の誰かにとっては、その色は普段と変わらぬ「白」なのかも知れない。

 月が紅く染まっているのではなく。そういう時。
 僕が、紅い色をした月を「見ている」。ただ、それだけの事なのかも知れない。


 夜中になって、僕は窓越しに、夜空の高いところに昇った月を見詰めている。
 こういう時。僕は時々、ある二つの矛盾した想いを抱くことがある。

 「この瞬間、きっとどこかで誰かが同じ月を見上げている」そう信じる想いと、
 「この瞬間、この月を見上げているのは『自分だけ』なのかも知れない」と、疑ってみるような想い。

 そんな、相反する二つの想い。

 普段はその両者の間で上手くバランスが取れているけれど、今日は何となく、後者の想いの方が強いみたいだ。


 窓を開ける。初夏のものとは思えない冷たい空気が部屋に流れ込み、足元を這う。夜空にはまんまるな月が、白く輝いている。…綺麗な、満月だ。

 でも、どうしてだろう。
 見上げる今夜の満月に、僕はあまり惹かれていない


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