kassyoku 048 『巣立ち』 外の様々なところで、雀の雛の鳴き声がする。電柱の上、トランスを載せるための台座になっている角型の鉄パイプの中。古い木造の建物の軒先。近所の平屋の建物の、プラスチックの部分が割れて穴があいてしまった換気口の中。 ピリリ、ピリリという鳴き声にそうした所を見上げると、やがてその小さな穴から親雀が飛び出してくる。親が出てしまうと、雛達は静かになる。でも、さほど間を置かずに親雀は再び虫を咥えて戻って来る。そうするとまた、ピリリ、ピリリ。大きな声が響く。 巣穴に飛び込む前。親雀は一旦近くの電線や屋根に止まって、周囲を窺う。真下で僕が立ち停まって巣を見上げていたりすると、やはりなかなか巣穴に入ろうとはしない。で、歩き出してしばらくすると、背後の方でピリリ、ピリリ、と合唱が始まる。 …親雀はそれほど周囲を警戒しているのに、雛達の方はお構いなしだ。 その大きな鳴き声だけで、巣の在り処はバレバレなのに。 雛の声に気づいてから、もう何週間かになる。 もう雛は随分大きくなって、巣も大分窮屈になってきているだろう。雀らしい羽も生え揃い、そろそろ雛は巣立ちの時期を迎えるはず…。先週末の職場への通い道。その道の途中で雀の雛の鳴き声を聞いた時、そう思った。 そして、土日を挟んで二日ぶりの、今日の夕方。その道を歩いていた時。僕はある雀の雛の、巣立ちの光景を目撃した。 ヂッヂッヂッヂッ…と、頭上でけたたましい鳥の鳴き声がした。 鳴いている鳥が、最初は何なのか判らなかったけれど、見上げてみると、それは雀だった。電柱の上の角型パイプの中に造られた巣。その少し手前の電線に親雀が止まり、とても雀のものとは思えない鋭い鳴き方で「ヂッヂッヂッヂッ…」とやっている。 何事か、と思って、その巣がある電柱の頂を見た。 中に巣が納まっている角型パイプが、地面と平行に取り付けられている。 そしてその下に、一羽のカラスが逆さまになってぶら下がっていた。 カラスは逆さになったそのままの姿勢で、パイプの端から頭をその中に突っ込んでいる。そうして少し経ってから、その中のものを嘴で引き擦り出す。巣の一部がまず引き出され、ごそっ、と地面に落ちた。同時に、枯草や何やら細かいものがひらひらと宙に舞い散った。 カラスが再びパイプの中に首を突っ込む。親雀がヂッヂッと鳴き、カラスに襲われているその巣に近付こうとする。でも、親雀はそれ以上、カラスには近付けない。その距離は1メートルほどだろうか。その光景を目前に、親雀はただ「ヂッヂッヂッヂッ…」と、気が狂わんばかりに鳴き続けるだけ。 …また、この光景だ。子供の頃に何度か出会った、この光景。 カラスは必ずと言っていいほど、巣立ちの時が近い巣を襲う。カラスが人に「賢い」と言われる理由のひとつは、その「観察力」だと思う。カラスはちゃんと見ている。どの場所に雀の巣があり、そこでいつ頃卵が生まれ、いつ頃雛が孵ったのかを。 でも、そこに巣がある事が判っても、カラスはすぐに手出しをしない。指先ほどの大きさの卵や雛では、カラスにとっても腹の足しにはならないから…なのだろう。カラスはしばらくその巣を観察し、雛が大きく育つのを待つ。それが計算的なものか本能的なものかは判らないけれど、カラスは獲物が一番大きく実るその時を待ち、そして「収穫」する。 直接巣の中を覗く訳ではないのに、そのタイミングの良さ。ひょっとしたらカラスは、巣の中の獲物と「共感」すら、しているのかも知れない。 次にカラスがパイプの中から頭を引き抜いた時、その嘴には一羽の雛が捕らえられていた。そして、その雛が引き擦り出され、カラスがそこから飛び去ると同時に、もう一羽の雛がその穴から転がり落ちた。 転がり落ちる? …いや。雛は羽ばたいた。羽ばたき、そして飛んだ。 でもやはり未熟なのか、その体がそれ以上浮き上がる事はなかった。 羽ばたきは滞空時間と距離を伸ばしただけで、雛の体は風に乗る落ち葉のように、ゆっくりと地面を目指す。路肩を越えて、少し前までタンポポが咲き乱れていた側溝を越えて、その向こうの芝生の上に、雛はぽとりと墜ちた。墜ちて、きょとん、としている。 でも、その墜ちた場所。丈のある草が生い茂っている草むらではなく、きちんと刈られた、芝生の上だった。どこからか、すかさずもう一羽のカラスがやってきて、瞬く間に雛の頭上を覆う。 その刹那、雛は頭上のカラスを見上げたのだろうか。 もう一羽の雛を咥え、もう一羽のカラスが飛び去ってゆく。 ヂッヂッヂッ…と鳴きながら、親雀がカラスを追いかける。でも、まるで見えない壁があるかのように、やはりある一定の距離以上、親雀はカラスに近付く事ができない。 親雀はただ、鳴き続ける。カラスを追いかけながら。 とても雀のものとは思えない、その鳴き声で鳴き続ける。 ヂッヂッヂッヂッ… その声が、次第に遠ざかってゆく 『運命…って』 ヂッヂッヂッヂ…と、今日もまた、けたたましい雀の鳴き声を聞く。見ると、カラスが一羽の雀を追いかけている。そのカラスの後ろを、その鳴き声を上げながら親雀が追いすがっている。追われているのは、もう巣立ちした子雀だ。結構飛べるようになっており、必死でカラスを振り切ろうと羽ばたいている。でも、その逃げ方は直線的。どう見ても、カラスからは逃れられそうにない。 それなのに、カラスはなかなか子雀を捕らえられないでいる。 と、いうよりは、カラスがその狩りを「楽しんでいる」、そういう風にも見える。 先日見た、カラスが雀の巣を襲う光景。 その事を書きながら、僕は「運命」という言葉の事を考えていた。 運命…って。 『人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命によって支配されているという思想に基づく。めぐりあわせ。転じて、将来のなりゆき。』 広辞苑を引くと、そう書かれている。 カラスの嘴に捕らわれて、初めて外の世界を見た雀の雛。それはその雀の雛の運命。そうなる事は、その雛が生を受ける前から天命によって定められていた。 それならば。 あの雀の雛が産まれてきたのは、一体何のためだろう。 それは、カラスの餌になるため。 あの瞬間カラスに捕らえられ、喰われるそのために、あの雀はこの世に産まれ、そして、その瞬間まで育ってきた。…結果がそうだから、そういう事だ。カラスに食べられるそのためだけに、あの雛はこの世に生を受け、そして、束の間の生きた時間を過ごした。 あなたの眼の前に、今、一匹の魚がいます。 魚はこんがりと塩焼きにされて、皿の上に載せられています。そして今夜のあなたのおかずの一品として、御飯と一緒に食卓に並べられています。 その人に食べられる事がその魚の運命なら。 その魚は、この世に産まれてくるその前から、その人に食べられる…それが定められていた、ということ。 それなら、その一匹の魚が産まれてきたのも、生存競争を生き抜いてきたのも。そうして大きく育ったのも、網に掛かって捕らえられ、死に至ったのも。 その全ては「あなたのため」だった…と、言えるのかも知れない。 その魚は「あなたに食べられる運命」だったのだから。 カラスに追われていた子雀が、白樺の若葉茂る中に逃げ込む。 カラスは身を翻して反転し、余裕を見せるかのように「ぐるっ」と地面近くで大きな円を描き、それから、その木立の中に飛び込んでゆく。それを牽制しようと、親雀がその進路に入り、ヂッヂッ…とカラスを威嚇する。でも、カラスはそれを全く意に介さない。 子雀はもう、限界だ。でも、カラスがガサガサと木立に飛び込むと同時に、そこから飛び出す。そうして、僕が立っている辺りを目掛けて降下する。 カラスも木立から飛び出して、子雀を追って地面すれすれに降下してくる。 このままカラスが追いついて、子雀がカラスの餌食となれば、それは子雀が「そういう運命」だった、という事。子雀がこの場を巧く逃げ切って、カラスの餌食とならずに別の生を歩むのだとしたら、それもまた、子雀が「そういう運命」だった、という事。 可笑しい。 あらかじめ定められた一本道のはずなのに。運命は、どんどん枝分かれしてゆく。その時々に運命の主がとる、一瞬の行動の結果によって。 運命という言葉を、認めないわけではない。 でも、あらかじめ定められた運命というものを、僕は信じない。 やがてそうなる事が判りきっている、そういう事もある。 けれど、それも、その事が「判りきった」時点で、それはもはや「運命」ではなくなる。運命に、己の意思がかかわずらう事はできない。「判りきっている」という、その意思すらも。 「自分がやがていつかは死ぬ」…ということも、そうだ。 そういう事に対して「運命」という言葉を当て嵌めてしまうと、「運命」というその言葉自体、何の意味も持たなくなってしまう。 判りきっている事は、決して、運命とは呼べない。判りきった結果に至るその様々な過程が、「運命」と呼ばれるもの、だ。…僕にとっては。 こちらへ向かって逃げてくる子雀。地面すれすれを這うようにして飛んでいたけれど、土盛りされた道路の脇の草むら。その草の丈を飛び越せずに、その中に突っ込んでしまった。 墜ちた位置は、ちょうど僕の眼の前。僕は歩いていって、草むらを覗く。躰全体で激しく息をついている子雀が、まだ黄色いままの嘴をぽかんと開けた状態で、ハアハア…と僕を見上げている。子雀にとっては僕も逃げなければならない敵なのだろうけれど、もう草の中に蹲ったまま、動こうともしない。 5メートルほど向こうに、カラスが降り立つ。そうして、体の部分でそこだけ白い瞼をぱちぱちしながら、僕と子雀の様子を窺い見ている。 僕は子雀に手を伸ばす。それでも子雀は、逃げようともしない。 僕は子雀を拾い上げる…フリをして、カラスに向かって石を投げる…そのフリをする。カラスが慌てて飛び去る。でも、カラスは少し遠のいただけですぐに地面に降り立ち、相変わらずこちらを窺い見ている。僕は、今度は本当に石を投げる。石を拾っただけでカラスは逃げ出していたけれど、その広げた羽の近くを石が掠める。 カラスは遠のき、かなり彼方の屋根に止まる。それでもなお、離れて小さくなったカラスの意識が、相変わらずこちらに向けられている事が判る。 子雀を見ると、ちょっと向きを変えてこちらに背を向けただけで、相変わらず逃げようともしていない。 ヂッヂッヂッヂッ…。 親雀が、今度は僕に対して威嚇をはじめる。別に、獲って喰ったりしませんよ。…そう思いながら、僕はその場から退散する。 僕がした事は、一体何だったのだろう。 カラスを追い払ってしまう事で、カラスに喰われてしまうはずだった子雀の運命に、僕は立ち入ってしまったのかも知れない。 いや、僕が去ってしまった後でカラスは再び戻ってきて、子雀のその運命どおり、事は進んでしまうのかも知れない。 それとも。 あの場に僕がいて、僕がカラスを追い払うことすら、あらかじめ子雀の運命に組み込まれていた…それだけの事だったのかも知れない。 そういう運命は複雑すぎて、僕にはよく判らない。でも、恐らく。子雀に起こった出来事。その全てが「子雀の運命だった」のだろう。 そう。運命「だった」。…過去形だ。 既に起こってしまった出来事、過去は変えられない。そんな変えられないものに対して、人は時々自信ありげに「それは運命だった」と言う。まるで、そうなる事があらかじめ判っていたかのように。 起こってしまった途端、全ての出来事が「運命」に変わる。 運命はいつでも過去形だ。あらかじめ定められた運命なんて、存在しない。 己の自由な意思がもたらす行動が己の運命の選択となり、他からもたらされる全くの偶然が、己の運命をどんどん変えてゆく。 疲れ果てて、子雀は地面に墜ちた。 そこにたまたま、僕がいた。…そういう事だ。 そして、たまたまそこにいた僕は、カラスへ向かって石を投げた。 誰もが、他の何者かの運命に影響を与える、その力を持っている。 それが善きにしろ、悪しきにしろ。 その事だけは、知る必要があると思う。 運命…って 『初夏の紅葉』 春を迎えてからずっと、風の吹き荒ぶ日が続いているような気がする。この街の風は、止むことを知らない。この街に越してきてからまだ一年ちょっとの僕は、この街の事、「風の街」だと感じているけれど、他の人はどうなのだろう。とりわけ、この街に産まれて、この街にずっと住み続けている人は、どうなのだろう。 僕はこの街の事、「風の街」だと、感じるのだけれど。 強い風にその枝葉をざわめかせている、一本の木に目をとめる。 春に満開の花を咲かせていた桜の木。花の後には小さな果実を、その枝々に無数にぶら下げていた。今では大分落ちてしまったけれど、まだその枝先には、濃い紫色に熟した果実がまばらにぶら下がっている。 この桜の木は、今、一番変化に富んだ時期を迎えている。 一部の枝先では、葉が次々と失われている。枝の先端にあるものから、葉はどんどん姿を消してゆき、何も無い裸の部分が段々と、その枝の根元の方に下りて来ている。 葉が残っている部分と、葉が失われている部分の境目。そこにまだ残されている葉の姿は、穴が無数に空いていたり、付け根の部分だけを残し、半分ちぎり取られたような形をしていたり、葉の葉脈、その血管のような節々だけが残された、そんな姿をしていたりする。 よく見ると、そうした葉には無数の小さな毛虫が取り付いている。枝の先端に産まれ、枝先から葉の姿を次々と消し去りながら、成長を続ける小さな毛虫達。今も新しい葉に喰らいつき、数日前までは完全だった葉の形を、変化させ続けている。 風に折られたのかどうかは判らないけれど、別の所では一本の細枝が、途中からポッキリと折れ、地面と直角になって皮一枚だけでぶら下がっている。 その折れた部分から先にも、まだ葉は残っている。 そして、その折れた枝先の葉が、まるで秋の紅葉の季節を迎えた時のように紅く黄色く色付いている。 こういう時にも、葉は色付くのか。 秋。これから冬を迎えるにあたって、木が自らの意思で葉を落とす時以外でも、葉はその営みを終えるその前に、こうしてその身を鮮やかに染める。 ムクドリくらいの小鳥が木の下で、地面に落ちた桜の果実を突付いている。 風が強く吹いて、木全体がざわざわと揺れる。 風を切って寂しく揺れるのは、風を受け止める葉を失った裸の枝先。 ぶらぶらと振り子のように大きく揺れるのは、初夏の紅葉を纏う折れた枝。 大きく傾いた陽射しが、薄紅色に染まりはじめている。 その日の営みを終える時。太陽も鮮やかにその身を染めて。 やがて街は夕暮れを迎える 『満天の星空を見に行こう』 部屋の窓を開け放ち、掃除と洗濯。洗濯機を回している間に、部屋に掃除機をかける。その時、開いた窓の外から、ふと唄声が聞こえたような気がして、僕は掃除機のスイッチを切った。 掃除機を止めると外からの雨音。そして、その雨音に混じって、確かに唄声が聞こえてくる。仕切りを一枚隔てた、隣の部屋のベランダから。たどたどしい子供の唄声。 おーほしさーま、きーらきら…。 七夕の唄。笹の葉の飾りつけでもしているのだろうか。 僕は手を止めて、唄声に耳を澄ます。やがて唄は終わり、隣の部屋のベランダの戸が、カラカラと音を立てて閉ざされる。外からの雨音が急に強くなる。部屋の奥では洗濯機が、低い唸りを立てて回り続けている。 一日中雨だった。なので、星空なんて見えるはずは無かったけれども、やはり夜になってから、窓を開けて赤黒い雲に覆われた夜空を見上げてみた。いや、空が晴れていても、この場所で見られる星の数なんてそれほど多くは無い。判っている。けれども、こういう日は何だか、以前は何の気なしに見上げていた、無数の星が瞬くあの夜空が懐かしく思えてしまう。 …そうだ。満天の星空を見に行こう。 瞳を閉じて。それでも瞼の裡が明るかったら、部屋の電気も消す。 そうして視界の全てが真っ暗になったら、その瞼の裡の夜空に、輝く無数の星々を思い描くんだ。 闇に目が慣れるに従い、空の星々は次第にその数を増してゆく。真の闇の中では煙草の火すら目を眩ませ、無数の星を見失わせる。真上を見上げると、黒い壁を白のスプレーでさっとひと吹きしたような、天の川。そして、その光の帯の内に外に、星座を形造る明るい星々が無数に散りばめられている。 時折、唐突に流れ星が空を走り、一条の光の軌跡を残して消える。人が打ち上げた様々なものが、気ままな角度と速度で、星々と交錯しながら星空を過ぎる。 ふいに一陣の風が吹き、闇に覆われ姿の見えない周囲の木立を騒めかせる。足元の草がさわさわと音を立てる。太陽の光の元では目にする事ができる、自分の身の周りの世界全て。頭上の星々を除く全てが、この闇の中。その立てる音でしか捉えられなくなる。自分すらも。 そんな闇の中で、僕は星空を眺め続けている。 そうして見詰めているうちに、やがて目だけではなく、僕の中に流れる時間の方も星空に慣れてきて、僕の視界の中。天球は全ての星々を道連れに、ゆっくりと大いなる回転を始める。 …いや、違った。動いているのは、僕が立っている大地の方だったっけか。 でも、どうだっていいや。そんな事なんて。 カチッ、カチッ…と時を刻む時計の秒針の音が聞こえている。 秒針の音は段々と大きくなり、静寂の中、次第にその存在感を増してくる。 その音に意識が向いた、その瞬間。 見えていた星空は掻き消され、僕はゆっくりと眼を開く。 そうして僕は。 満天の星空の世界から一瞬で、見慣れた自分の部屋の中へと戻ってくる 『走れ、走れ』 久しぶりに河川敷を走る。先日までの風も弱まり、気温もぐんと上がって、ようやく夏らしを感じた一日。走りながら目にする、犬の散歩をしている人やベンチに座る人。その服装も、いつの間にか真夏のそれになっている。 でも、ウォーキングをしている人の服装だけは別。春も夏も秋も関係なく、年中ウインドブレーカーのような長袖の上下姿で、この細長く伸びた自転車道を、姿勢よく元気に手を振りながらてくてくと歩いている。 この街に引っ越してからは、以前のように連日長距離を走ることは無くなった。十キロを超える距離を走る事はまず無く、大抵はその半分。五〜六キロくらいで済ませている。 ただ、その五〜六キロという距離が、走ってみると以前の五〜六キロよりも長く感じる。走る環境が変わったせいだろうか。前の田舎町では、畑の中を抜ける農道を五キロ走ろうが十キロ走ろうが、さほど景色が変わる訳でもなく、道行く誰かとすれ違う事も滅多になかった。けれども、ここは違う。河川敷の自転車道の上には、それぞれ様々なペースで進んでゆく無数の人々。そして、走り進むにつれてその姿を次々と変えてゆく街の景色。 このコースを片道で十キロ走ると、この街を突き抜けてしまう。 いや、それよりもこの自転車道は、そんなに先まで続いていただろうか。 …とにかく。前に走っていた田舎道とこの自転車道では、走りながら感じる「距離感」が全然ちがう。同じ十キロでも、田舎道のそれはただ漠然と続く十キロ。この街のそれは、景色がめまぐるしく変化する十キロ、なのだ。 川を越える橋の下を、何本か潜り抜ける。橋の上には、家路を急ぐ車の長い列。まだまだ走れそうな気がしたけれど、そこを越えた所で折り返す。夏を迎えて気温も上がり、身体のテンションは高まっているみたいだけれど、どうも気持ちの方がそれについてこない感じがする。 でも、身体の方は快調なので、復路は全力を出して走った。 歩く人を追い越し、駆け足する人を追い越し、ゆるゆると走る自転車を、追い越す。 走れ、走れ。 息が苦しくなり、空気を吸い込む度に、喉がキュウキュウと鳴く。硬いアスファルトを打ち続ける衝撃に、足首と脛の辺りが痛み出す。けれども、その苦痛とは別のところで、痛みを知らない腿と腕は回転を続けようとする。そして、その間。意思は言葉にならない指令を次々と発しながら、その両者の間を必死で取持とうとする。 走れ、走れ…。 走り終えてから芝生の上に、大の字になって仰向けに寝転がる。 走るのを停めると、息は急に苦しさを増す。 硬直してパンパンになった脛の筋肉が、更に痛み出す。 疲労と苦痛、息苦しさ。 そして、この全身の熱さ。 …ああ、生きてるんだなぁ |